橋本紋三郎の四男として生まれ、上林家の養子となり7石二人扶持で藩に仕える。明治10年仙台鎮守府の兵役を終え陶山運平に師事した。
丹羽庄右衛門の亡き後明治、大正、昭和にかけての第一人と言われた。年に20〜30本の竿を作り其れが皆名竿であったと云われる。
名竿「冨士号」(3間4尺5寸の真鯛竿で日本一として丹羽庄右衛門が名付け親となった名竿 致道博物館蔵)、「榧風呂」(かやぶろと云い4間一尺の鱸竿である。1尺2寸の黒鯛が釣れても、2尺4寸の鱸が釣れても同じように曲り取り込み後は直ぐにま直ぐ元に戻ったという。 致道博物館蔵)、「オッコの風呂」(節が荒く上林ではなくては真直ぐに出来ないとされた竿で長さは11尺 現在鶴岡市内の某氏が所蔵)等実用の上に更に優美さを兼ね備えた名竿が多い。
榧風呂」の謂れと逸話
通称「かやぶろ」と云われたこの竿は、上林義勝が生涯手元において置きたかった1本であった。為に、酒井の殿様に所望されても決して離さなかったという。ところが晩年になり、中風を患った折鶴岡の五十嵐弥一郎氏が所望したことがあった。冗談半分に「榧の木の風呂入ると中風が治ると効いたので一週間以内に榧風呂を持ってきたら竿を差し上げても良い。」と云った。榧の木は将棋や碁の盤材として使われるもので高価な木材である。しかし、五十嵐弥一郎氏は見事風呂屋を急かして送り届け手に入れたという。それで以来「榧風呂」と云われる様になった。
この名竿には後日談があります。その後、殿様が欲しがっていたことを知りお譲りしたといいます。昭和27年頃この竿を持って磯見船の船頭で有名な佐藤桃太郎氏の案内で鼠ヶ関の弁天島の沖500mの女島付近で鱸釣を楽しんでいた折不覚にも魚に竿を持っていかれたそうです。翌日佐藤桃太郎氏が竿を探して引き上げた所、1尺6寸(48cm)の赤鯛が釣れていたそうで届けた所「魚釣りで魚に竿を取られた事は、相手に刀を取られたことと同じ。武士としてあるまじき事。赤鯛はあり難くご馳走になるが、竿は拾ったそちの物のである。この事は他言無用である。」と云われたそうです。桃太郎氏から菅原一郎氏の手に入り鱸釣で穂先から40cmのところで折れて竿師根上吾郎氏の手に渡った。根上氏が3年がかりで補修をして現在の殿様酒井忠明氏の仲介で弟が館長(酒井忠治氏)を勤めていた致道博物館に寄贈された。
「オッコの風呂」の謂れ
「オッコ」とはヒバ(青森ヒバとして有名で抗カビ、抗菌作用があり高級木材として知られる。)=桧の方言である。
上林竿の収集家(上林竿だけでゆうに130本は持っている)の鶴岡市京田の五十嵐弥一郎氏の所へ上林義勝がやってきて、以前から所望していた11尺の竿をやるから据風呂を作って欲しいといった。そこでヒバで据風呂を作り、竿を貰って「据風呂」と名づけた。その後子供が世話になっている小学校の先生から竿を所望され差し上げたという。其の頃から鶴岡の釣師の人から「オッコの風呂」といわれるようになったという名竿であります。竿師の流れ(トクサ掛けをしている)
平野勘兵衛→上林義勝→中村吉次→鶴岡の竿師
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