庄 内 竿 の 歴 史

庄内地方でも、かなり昔からその土地に自生していた苦竹や矢竹、大名竹、布袋竹等を使って釣竿が作られて来ました。しかし、なぜか布袋竹だけは同じ庄内でも酒田地区にはあって、鶴岡地区には生えていなかったそうです。

その昔釣竿は、浦島太郎に代表されるような釣漁師の手によって作られてきた。庄内では殿様の浜遊びの一環として、釣に使われた竿は、すべてこの人達の手で作られた竿で賄われた。次第に釣の回数を重ね釣の面白さが分かってくると弓の技術を用い、自分で作ったマイロッドを持参するようになる。1700年代の後半には職業としての釣と趣味の釣が分化している事が分かる。庄内竿の始まりは釣をする武士たちが自分自身の為に作ったことが始まりで専門の竿師が作ったものではなかった。その為、自分が納得のいくまで期間、手間隙をかけて作る事が出来た。竹取から毎年竿をタメてはノシを繰り返し、さらに囲炉裏の煙でクスべて独特のあめ色になるまで5年と云う長い歳月をかけて作り上げた一品である。
庄内地方の肉が強靭でしなりも良くしかも細く長い苦竹というニガ竹を使用して、独特な黒鯛を狙う為に作られた穂先から根っこまで一本の延べ竿でしかも元もしくは胴調子の庄内竿は1800年初頭陶山運平(スヤマウンペイ=鶴岡藩士)と云う武士により完成されたと伝えられている。古来延べ竿をもって庄内竿と云います。延竿故に新たに大正時代の汽車の出現で考え出され携帯に便利な継竿や戦後普及し、現在でも良く使われている庄内中通し竿は庄内竿と呼べないという釣師、竿師の方々が大勢おります。継竿をノベ竿の範疇に入れている人もおりますが、今もって中通し竿は未だ誰からも認められてはおりません。
これらの竿はすべて元々一本の竹から作られております。そして原則として竹皮を削がない(竹に傷を付けない)、一切漆を塗らない、焼け焦げを付けないと云う事が他に類を見ない竿となっていることが、最大の特徴とも云えます。
運平以後、丹羽庄右衛門(鶴岡藩士弓師支配方300石の上級武士)、平野勘兵衛(鶴岡藩士20石3人扶持弓方総支配)、上林義勝(鶴岡藩士7石二人扶持)、中村吉次(鶴岡藩士6石二人扶持)、山内善作(1887〜1940)、本間祐介(1907〜1983)、中山賢士(1880〜1967年 学校教員)等の名人名竿師が生まれました。他に鶴岡には昭和初期に活躍した文人釣師の宇野江山(1876〜1952)等もおります。
たまたま機会があって通称上林竿と呼ばれる上林義勝の名竿を振って見た事がありますが、それはそれは優美と気品を兼ね備えた上に立派な実用品であった事が良く分かりました。又丹羽庄右衛門の長竿は仕上げは荒く多少ごついという感じを受けましたが、黒鯛を釣るための実用品と感じました。
江戸時代の武士たちは腰に大小の刀を差し3間5尺(黒鯛竿=約7m)の延べ竿数本と餌や道具と魚入れ(はけご)それに食料を携えて鶴岡の城下より山越えで往復28〜80kmの日本海の磯の釣り場まで徒歩で行ったのです。ちなみに享和元年(1716)の文献に加茂磯(鶴岡市加茂地区往復28km)に釣に行くと云うのがあります。
今もって継竿(一部の方々)、中通し竿は庄内竿と云わないと云う釣師や竿師の方々もおりますが、其の歴史は大正時代の頃自転車や汽車(鉄道の開通大正8年=1919)での運搬時の携帯に不便であったと云う理由だったからである。イギリスのフライロッドで有名なハーグ社と同じような継ぎ方が大八木式(真鍮パイプに竿を差して90度捻じると突起がついていて外れない。)として新案特許をとり鶴岡の大八木釣具店から販売されまれました。いわゆる管継ぎ式である。現在のように継ぎの部分を真鍮のパイプにらせんを入れて継ぐ様になったのは昭和初期(昭和5年の竿が:現存している)鶴岡の山内善作が作り、酒田の中山賢士等が改良したものといいます。これが真鍮螺旋パイプ継ぎである。これは差し込のある方に薄い真鍮パイプを入れ、印籠のある方の竿にらせん状の溝を切って竿を一度竿を押し込んでから、次に捻じりながら差し込んでいくと云うものです。しかし庄内竿自体の特性から見ると進化なのか邪道なのか・・・・分かりませんが、ともあれ、携帯に便利な継竿の開発は、戦後「庄内中通し竿」へと発展し、後々の庄内の釣人口を爆発的に増やしたと云う役割は否めません。
江戸時代の釣では、城下より西側の加茂磯又は由良以南まで徒歩で往復28〜80kmの山越えの道を一日または二日がかりの釣であった。しかも餌のえび、釣具、食料、飲料水等の荷物を背負い、腰に大小の刀を差して肩には3間から4間の延竿を2〜3本担いでの釣で足腰の鍛錬になったと想像されます。朝マズメの釣に間に合うように行く行くことは、夜間の戦いの訓練にもなるということです。しかも到着すれば朝マズメ、夜間、夕マズメの釣では待ちと集中力の修行となった。それは真剣の立会いに通ずるものと考えられた。釣が戦に役に立ったのかは分からないが、戊辰戦争では二十三戦して全勝しています。特に足腰の粘りを利用してのゲリラ戦を得意とし官軍を大いに悩ませたと云われている。他の奥羽列藩同盟と異なり戦いはすべて庄内藩の領外で行い藩内には一歩たりとも入れた事はなかった。幕末の軍学指南役の秋保親友も釣が戦に役立つと藩士に大いに勧めておりました。
江戸時代の釣糸は庄内では絹糸(道糸=鶴岡糸と云われた)や栗虫(ハリス用)からテグスを採って加工したものだったといわれています。戦前から昭和30年前半かけてに使われていた柿渋で煮た茶色の秋田糸とか、人造テグスの2〜3号が今のカーボンの1号にも全く及ばなかった事からも引きの強い黒鯛(江戸時代は剛鯛と云い、其の外はすべて外道と云っていた=黒鯛釣の発祥の地)を釣っていたのです。その様な弱い釣り糸で釣っていた、当時の釣り人武士達の釣は如何に集中力と体力を要した釣なのかが分かると思います。庄内竿独特の満月のようにしなる細い元もしくは胴調子の竿で日本海の荒波でもまれた黒鯛をあしらう姿を想像して見てください。道糸やハリスの弱いと云う欠点を細くよく曲がる長い竿で魚の引きに耐え実践で釣る事を覚えた結果なのです。
当時の釣では初夏のハラミ鯛(ノッコミ黒鯛)は決して釣らず、黒鯛の体力の回復した秋になってから黒鯛を釣っていたと云うのは、いかにも武士の釣そのものを表現している逸話と思います。今でも鶴岡のお年寄りの人たちは春先は黒鯛を狙わず別のもの例えばタナゴ、ソイ、メバル、アジなどを狙った釣をしています。
「体力の増強」「心身の鍛錬」を兼ね備えた釣を武芸の一端として「釣道」と云い(釣道指南までいたと云う)、荘内藩侯がとかく太平の世に流されがちな武士たちに奨励し、自からも率先して釣をやったそうです。良い竿を作るために武士たちは、庄内中の竹薮に探し廻り、竿に出来る竹を求め釣果を競ったのです庄内藩の軍学師範秋保親友の文政年間の書「野合日記」「名竿は名刀よりも得難し、子孫はこれを粗末に取り扱うべからず」とあり如何に「釣道」に励んでいたのか分かると思います。たかが釣とは言え、武芸の一端でありますので誤って竿や刀を海に落としたり、岩場から落ちて怪我をしたり、死んだりすれば家禄を減らされたとも言います。
又、このような釣の盛んな庄内から日本最古の魚拓(その当時は摺形=スリカタ又は絵図といって、徳川時代末期天保10年=1839年が残っている)が発見され、江戸庄内藩下屋敷近くの錦糸堀にて鶴岡藩主の若殿が釣ったフナであったというのもうなづけます。
昭和20〜30年代の頃までは釣りに行くことを鶴岡の釣師の方々は
「勝負」に行くと云っていたそうで武士たちが武芸といって居た名残りがつい最近まで残っていたと感心しております。
昔、東京近辺の竿師の方々から通称女竹(苦竹?)は癖がつきやすいのとノシ直しが大変で非常に嫌われたと聞いております。埼玉あたりに似たような竹がありそれをメダケ(釣瓶竹?苦竹より硬く、太い)と呼んでいたという事です。5年以上かけてキッチリと手入れされた庄内竿(苦竹)の名竿なりますとその様なことはなく手入れ次第では50年は当たり前で100年でも十分に使えます。現に100年近くたっていると思われる運平竿等も使ったいたと云う話を聞いた事があります。このように手入れさえして大事に使っていれば50〜70年は当たり前のように現役で使ってる釣人の多いのです。先日も明治時代に作られ先輩に戴いたという上林竿を使っている鶴岡の人にお会いできました。
最近は竿のタメに使う、木蝋(昔は和蝋燭を使っていた)が高価になり、中々手に入りづらくなり困っております。なぜか、西洋蝋燭では竿をためる為に焙っていると低温で火が着くのが早くコゲがついてしまいます。
庄内竿は関東や関西の和竿と違い漆等(ウラを継ぐ時と補修以外)をまったく使いませんので竹そのもの色が出てきます。また、近年は炉を切ってある家がなくなり、天井裏等に置いて囲炉裏から出る煙で少しづつ燻し(虫食いの予防にもなる)何年も何年もかけてきれいな飴色を出すことも出来なくなりました。其の色は何とも云えない気品と優美さを醸し出し、庄内竿が珍重され、名竿は名釣師代々の遺言竿(名竿の持ち主の釣師が亡くなると、友達やお世話になった釣師の方々により大事に引き継がれた)として引き継がれて来た由縁なのではないでしようか。




     















陶山運平(1809〜1885)

鶴岡藩士儀明の3男で庄内竿、釣針の製作をした。釣の案内書で知られる「垂釣筌」の作者兄の槁木は焼針を考案し弟運年に伝えたという。運平は名人と謡われたが、その上の名人云われる上林義勝は運平の弟子であった。運平の黒鯛竿は総調子で釣れると満月のように弧を描きどんな大物にも耐える竿であったという。


丹羽庄右衛門(1833〜1915)

300石という大身で書画骨董に精通し、刀剣の鑑定に長ずる。竿作りを得意とし、3間5尺(6.9m)で直径5分(1.5cm)の細身の竿が現存する。彼の作る竿は細身の物が多い。
又、酒井家のお手本竿として細身の極限とも云える4間4寸(7.3m)径5分8厘(1.74cm)の竿もある。持つと重量感があり、伸ばすと美しい曲線を描く名竿であったと云われている。現在其のお手本竿の一つ臥牛(写真左)は鶴岡の致道博物館に展示されている。
この人の竿は300石という大身の武士の家柄だけに、細心にして大胆かつ豪快な竿が残っている。多少の傷などは気にしなかったようです。
竿師の流れ(トクサ掛けをしない)

丹羽庄右衛門→山内善作→本間祐介→中山賢士→酒田の各竿師 
  (鶴岡)     (鶴岡)   (酒田)  (酒田)  


平野勘兵衛(1847〜1896)
 
庄内藩の弓師で平野家8代目で竹を扱うことから好んで竿を作った。弓の技術を使い孟宗竹を表皮の部分を内側に入れ4枚にはり合わせニベ(魚の骨で作った膠の様な強力な接着剤)でくっ付けて丸く削った削り竿を考案した。四枚あわせ、二枚合わせの玉網も残っている。 時を同じくしてイギリスのフライロッドの製作で著名なハーディ社のハーディが竹を四枚あわせてフライロッドを製作している。わが国の合わせ竿の先駆けとも言われる

写真は平野勘兵衛のケズリ竿


上林義勝(1854〜1938)


橋本紋三郎の四男として生まれ、上林家の養子となり7石二人扶持で藩に仕える。明治10年仙台鎮守府の兵役を終え陶山運平に師事した。
丹羽庄右衛門の亡き後明治、大正、昭和にかけての第一人と言われた。年に20〜30本の竿を作り其れが皆名竿であったと云われる。
 名竿「冨士号」(3間4尺5寸の真鯛竿で日本一として丹羽庄右衛門が名付け親となった名竿 致道博物館蔵)、「榧風呂」(かやぶろと云い4間一尺の鱸竿である。1尺2寸の黒鯛が釣れても、2尺4寸の鱸が釣れても同じように曲り取り込み後は直ぐにま直ぐ元に戻ったという。 致道博物館蔵)、「オッコの風呂」(節が荒く上林ではなくては真直ぐに出来ないとされた竿で長さは11尺 現在鶴岡市内の某氏が所蔵)等実用の上に更に優美さを兼ね備えた名竿が多い。


榧風呂」の謂れと逸話

通称「かやぶろ」と云われたこの竿は、上林義勝が生涯手元において置きたかった1本であった。為に、酒井の殿様に所望されても決して離さなかったという。ところが晩年になり、中風を患った折鶴岡の五十嵐弥一郎氏が所望したことがあった。冗談半分に「榧の木の風呂入ると中風が治ると効いたので一週間以内に榧風呂を持ってきたら竿を差し上げても良い。」と云った。榧の木は将棋や碁の盤材として使われるもので高価な木材である。しかし、五十嵐弥一郎氏は見事風呂屋を急かして送り届け手に入れたという。それで以来「榧風呂」と云われる様になった。
この名竿には後日談があります。その後、殿様が欲しがっていたことを知りお譲りしたといいます。昭和27年頃この竿を持って磯見船の船頭で有名な佐藤桃太郎氏の案内で鼠ヶ関の弁天島の沖500mの女島付近で鱸釣を楽しんでいた折不覚にも魚に竿を持っていかれたそうです。翌日佐藤桃太郎氏が竿を探して引き上げた所、1尺6寸(48cm)の赤鯛が釣れていたそうで届けた所「魚釣りで魚に竿を取られた事は、相手に刀を取られたことと同じ。武士としてあるまじき事。赤鯛はあり難くご馳走になるが、竿は拾ったそちの物のである。この事は他言無用である。」と云われたそうです。桃太郎氏から菅原一郎氏の手に入り鱸釣で穂先から40cmのところで折れて竿師根上吾郎氏の手に渡った。根上氏が3年がかりで補修をして現在の殿様酒井忠明氏の仲介で弟が館長(酒井忠治氏)を勤めていた致道博物館に寄贈された。

「オッコの風呂」の謂れ

「オッコ」とはヒバ(青森ヒバとして有名で抗カビ、抗菌作用があり高級木材として知られる。)=桧の方言である。
上林竿の収集家(上林竿だけでゆうに130本は持っている)の鶴岡市京田の五十嵐弥一郎氏の所へ上林義勝がやってきて、以前から所望していた11尺の竿をやるから据風呂を作って欲しいといった。そこでヒバで据風呂を作り、竿を貰って「据風呂」と名づけた。その後子供が世話になっている小学校の先生から竿を所望され差し上げたという。其の頃から鶴岡の釣師の人から「オッコの風呂」といわれるようになったという名竿であります。竿師の流れ(トクサ掛けをしている)


平野勘兵衛上林義勝中村吉次鶴岡の竿師


中村吉次(1859〜昭和初期)

父を中村勝助と云い鶴岡藩士6石二人扶持の家に生まれる。幕末の慶応2年に家督を相続。名人陶山運平に師事し、釣り針と竿の作り方を伝授される。上林義勝より落ちるという人もいるが、本人が釣の名手でありそれで実戦的な竿作りを行い強くて使いやすかった釣竿を作ったという。多少の雨や夜露にぬれても調子は変わらないという評価がある。


山内善作(1887〜1940)
 
山運兵の兄で磯釣の案内書「垂釣筌」著したことで有名な陶山橋木の孫儀成の長女まさの長男である。竿師山内作兵衛の長男で鶴岡町役場に勤務の傍ら竿作りを行い、退職後本格的に作った人である。そして名竿を手本とし独自に技法を学んだという。自分で実際竿を使ってその後は必ずそれ以上の竿を作った。長短、剛軟臨機応変に磯竿を製作、後に庄内竿の昭和の名人と称えられる。若干53歳で亡くなるが、後10年長生きすればと惜しまれる人物である。
大八木式の真鍮パイプ継を改良した昭和5年の螺旋真鍮パイプ継ぎの創始者でもある。この螺旋真鍮パイプ継ぎは現在でも使われている。


本間祐介(1907〜1983)

間家別荘の鶴舞園にて
父は鶴岡の鶴岡の服部家から酒田の大富豪本間光輝の養子に入り、後分家した本間敬治の次男として生まれた。
酒田中学(今の酒田東高等学校)を卒業後、二松学舎専門学校(今の二松学舎大学)に入ったが、中退し鶴岡の竿師山内善作に師事、その後昭和18年まで船場町にて釣具屋を営む。
昭和18年日本一の大地主本間宗家の委属で後見人となり終戦後の農地解放(マークゲインのニッポン日記=ちくま学芸文庫に日本一の大地主本間家とGHQの折衝のやり取りが書いてある。後にNHKで高橋幸治主演でドラマ化された。)、復興等に尽したことで知られる。
 実業界での活躍の方が長く、残っている竿は少ないものの(酒田の本間美術館と鶴岡の致道博物館に幾本かある)本間竿として知られている。事業の傍ら刀剣、竿の鑑定などを良くし、其の目利きは大した物であったという。昭和51年陶山槁木(一八〇四年)が書きのこしたといわれる『垂釣筌』(すいちょうせん)の復刻を本間美術館からし、更に著書「庄内竿」「庄内釣話」等を書き残した。本間家別荘の庭「鶴舞園」にて


中山賢士(1880-1967)

酒田町長となった中山英則の次男として生まれ、山形師範学校を出て初等教育界にて活躍し、退職後好きな釣、竿作りに没頭した。
殊に竿作りには定評があり酒田の釣界では中山竿として珍重された。釣の他短歌をたしなむ多彩な趣味の持ち主である。そんな関係で号は丘下漁夫、手工、不飽庵、古武台主人、碧竿等がある。


宇野江山(1876〜1952)

岡の七日町に妓楼を営んでいた宇野彦治の長男で本名を信治といった。趣味が甚だ広く漢学、禅学、俳句を良くしさらに書、南画に及んだと云う。昭和4年(1929)遊郭が双葉町に集団移転と同時に家業を廃業し依頼趣味の道に没頭した粋人である。早くから釣を好み名人といわれ、竿も多数作った。「漫談釣哲学」、「釣の妙味」などの釣に関する書がある。


3間5尺の黒鯛竿

竿が長ければ長いほど糸が切れ難い、よって黒鯛を釣り竿は3間5尺が定法となった。そして少しでも長くする為に根っ子から採るようになった。そして、道糸は絹糸を細く寄ったスガ糸で、ハリス栗虫から採ったテグスであるからどうしても弱いので、竿は少しでも長く、胴又は元調子で満月のようにしなり魚の引きを殺す必要があった。


享和元年(1716)の文献

庄内藩士豊原重軌(しげみち1681-1751)の書いた「流年録」の1716年の項に「安倍兄弟に誘に依りて加茂へ釣に行く。かしこにては宅左衛門と云える者方に一宿す。翌日も釣に出て夜になり帰る」とあり、其の釣行は一泊二日で次の日の夕方まで釣っていたことが分かります。


ハーグ社

アメリカのルーズベルト大統領愛用のハーグ社のフライロッド。継のパイプは砲金製である。


秋保親友(1800〜1871)
庄内藩400石の庄内藩郡代秋保親身の長子で藩の指南役土田丑治郎、水野丹解に学び其の後高崎藩の市川達斎に師事し免許皆伝1842年庄内藩の軍学師範となる。1847年郡代となり、1851年より藩校の致道館で兵書の講義を行う。著書に「野試合日記」、「操兵錬志録」、「海防錬志録」などがある。
自ら、釣をたしなみ、竿もたくさん作った。
「野試合日記」の中で「竿に上中下の三品あり。その品に名竿あり、美竿あり、曲竿あり。」と述べいてる。名竿とは本(手元)とウラ(穂先)の総体がリンリンとし釣り合っている竿といっている。美竿とはお手本になる竿と述べ曲竿は霜や露に合うと竹の悪いところが出てきて役に立たない竿といった。


庄内に残る最古の魚拓

現在の魚拓は、江戸時代「摺形」、「勝負絵図」等といわれていた。


庄内の古い魚拓の一覧





1. 「錦糸堀の鮒」  天保10年(1839年)


江戸錦糸堀にて荘内藩主の若殿が鮒を釣ったとさ

れるもので庄内藩の林家の古文書に収録されてい

たものである。これが健在見つかったもので日本最

古の魚拓とされている。
   



鶴岡郷土資料館蔵




2. 「川 鮒」    安政2年(1855年)


庄内松山藩2万5千石(庄内藩酒井家の分家

)の家老で博物学者松森胤保の「百年旧談」に

貼り付けてあったもの 
鶴岡市の松森写真館蔵

写真なし

3. 「最上川の鯉」   安政4年(1857年)


最上川の新堀集落(現酒田市大字新堀で最上川



の南岸にある)の加藤某が拓したもの











   
 本間美術館蔵 

                          

4. 氏家直綱の「鯛鱸摺形巻」 
    (タイ、スズキスリカタマキ)


庄内藩士氏家直綱が文久2年(1862年)、



慶応3年(1867年)に釣上げた33枚の魚拓で長さ



15mにも及ぶ巻物。赤鯛は朱墨を使用している。  







本間美術館蔵
 
5. 大瀬正山の「釣勝負絵図巻」」


庄内藩士号を大瀬正山(号、名を元治)と云う。



慶応元年(1865)〜明治3年(1899)に釣上げた9枚、5m



の巻物。 



特に赤鯛は朱墨を使用しているので有名




本間美術館

写真は昭和62年の東京フィッシングショウの和竿の展示の「庄内竿の展示室」を撮影したものです。撮影は酒田の鈴木氏(当時埼玉に在住)のご好意によりコピーさせて頂きました。


勝     負          



同じ庄内でも酒田が商人の釣(道楽者とされた)で、鶴岡が武士の釣(武芸の鍛錬の釣)であった。     



釣も同じ武道のひとつとされていたので「今日の勝負は如何でしたか?」というのが挨拶代わりであったそうである。
クロダイが一枚も釣果が無ければ「空勝負」大物とのやり取りは「大勝負」運良く捕りこみに成功すれば「名勝負」と云われた。
又、大漁時には、客人を呼び家族総出で一献差し上げた。客人は「ご案内ありがたく存じます。御勝負拝見に参じました」と挨拶し「これは又珍しい御勝負でしたな」等と口々に褒め称えるのが慣わしであったと云われている。
明治維新に入っても庄内藩の家中の者達は「黒鯛会」という、今で云う釣りクラブを作っていて、1尺3寸(約40cm)の黒鯛を3枚釣上げると麻の裃(かみしも)を着て釣り人の家に参り「おめでとう御座る。いざ黒鯛拝見!!」等と云って歩いていたそうである。



土屋鴎涯(慶応3〜昭和13年)の「磯釣り」によれば庄内藩の釣では、まず家の許可が必要であったとある。10歳になると親が知り合いのベテランの釣師に頼み込み2〜3回指導して貰う。そして今でも通用しそうな注意事項、マナー等を聞かされる。

1. 濡れた岩では絶対に釣りはせぬこと。
2. 釣り場では笠は被らぬ事。
3. 笠、ゴザ、はけご(魚かごか?)、弁当類はまとめて結び、波打ち際より少し離れた凹みに同行者の分と一緒にまとめておく事。
4. 海に流された人が居ても絶対に手を伸べず、綱か帯の一端を投げ与え足場を見て構えること。
5. 腰には絶対はけご、弁当類等を付けたまま釣はせぬこと。
其の外個々の危険な岩場の特徴等を懇々聞かされた。